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Stories of coins and color stones

現物資産よもやま話し

2016年5月

今回はコインやカラーストーンなど思いつくままにお話ししたいと思います。

僕はよくお客さんから聞かれます。『田中さんはコインや宝石の話しをしているときすごく楽しそうですが、なにがそんなに楽しいんですか?』、こんな具合です。

確かに楽しいです、話しているときも楽しいですし、家でお酒を飲みながら宝石やコインを見たりいじったりしているときも楽しいです。でもコインと宝石では少し楽しさの質が違います。コインはデザインや重量感がいいですね、コインに描かれた王様の肖像を見ていると「ああこの人はちょっと下あごが出ているな、ハプスブルグ家の血だな」とか「“王様のスピーチ”のジョージ6世は確かに繊細そうな表情だな」とか結構たのしめます。中世の都市景観コインを見ていれば、例えばアウグスブルグの街並みや、ザルツブルグの銀鉱山の様子などが鮮明に描かれていて見ていてあきません、時々ルーペで視たりしますが、拡大してみるとそのたびに新たな発見があり驚いたりもします。

宝石にはそのような楽しみはありません、重量感はないですし、何が描かれているわけでもありません・・・それでもコインと違って色に無限の深みを感じます。きれいな石には独特のオーラがありますし、拡大鏡で見たときの美しさは文字に表せないものがあります。しかも人間の手で造ったものではなく、何億年という長い長い年月の経過によって、少しずつ造られてきた自然のまんまの物です。例えば私たちが山や川などで時々きれいな石を見つけることはありますが、このように透明な、しかも色鮮やかに輝く自然の造形物を見つけることができるでしょうか・・・大昔の私たちのご先祖様は、このような特別な石を見つけ、かつ磨いてさらに美しく仕立てましたが、その気持ちはたぶん僕がいま宝石をみて素朴に感じる気持ちと同じではないかと思います。自然の中にありながら、自然から超越した美しさを持った造形物を自分だけのもにし、かつ身に着けることができるということ、そのことに対する執着は、おそらく時を超え国を超え、人間の共通の願望ではないかと思います。

でも不思議なことがあります、コインにせよカラーストーンにせよ、僕の場合、下世話な話ではありますが、関心の度合いとお金が強く結びついているのです、例えば一枚5000円のコインと1枚300万円のコインがあったとしましょうか、5000円のコインはいくらデザインが面白くても、マジマジと眺めようという気持ちには到底なれないのです。が、300万円のコイン違います、銀行の貸金庫から引っ張り出してくるとき「ああ君久しぶりだね、元気だったかい」などと声をかけたくなりますし、酒を飲みながら一晩や二晩ながめていても飽きません。宝石に関しても同様です、例えばアメジストや加熱もののルビーなど、安物の石をみていても、確かにきれいだとは思いますが、さして興味はわきません。これに対して例えばビルマ産の非加熱サファイアをみていますと、そのあまりの深い青さに引きずり込まれそうになったりします。

つまり僕は単に美しさや歴史的な価値だけでなく、それと投資対象としての価値が混ざり合ったところに強い関心を持っているということだと思います。

さてさて自分の深層心理の探求はまだ続きます。実はコインや宝石以外にも僕は集めているものがあります、例えば切手です。切手もいいですよ、場所はとりませんし、それなりに価値が上昇している分野もあります。ただ僕は切手に対し、どうしてもコインや宝石ほどの愛情を注ぐことができません、一つは重量感ではないかと思います、なにしろ切手は扱いが難しく、例えばコインや宝石のように手に取ってシゲシゲ見ることができません、仮に掌に載せることがあったとしても、重量感ゼロで持っている実感を伴わないのです。紙幣も同様です、紙幣もサイドコレクションとして多少持ってはいますが、切手同様手にしたときに感触が物足りないのです、紙幣は切手より投資対象として幾分普遍性があり、それなりに出口戦略を立てやすいのですが・・・もしかしたら切手にせよ紙幣にせよ、無意識のうちに“紙の資産”に対する嫌悪感が働くのかもしれません。これは僕だけのことではなく、もしかしたら世界のコレクター共通の心理なのかもしれません。コインや宝石は、例えば切手や紙幣と比べ高い注目を集めていますが、それは案外とこのあたりの素朴な理由によるものではないかと思います。

今回は本当によもやま話になってしまいました、すみません・・・